【吉田兄弟】<吉田健一さんインタビュー第1弾>津軽三味線との出会い、兄とのユニット結成秘話、注目を浴びたキッカケや活躍する為の努力

津軽三味線の第一人者として活躍する吉田兄弟の弟、健一さんに迫るインタビュー。

ヒーローを夢見るヒト応援メディアの『HiRTo』では健一さんに三味線との出会い、注目を浴びたキッカケ、活躍する為の努力、数多くの作品とのコラボ、そして第一人者としてヒーローを目指す方々へのアドバイスなどをたっぷりと語ってもらったインタビューを2回に分けてお届けします。

【三味線との出会い】

―― まずは三味線との出会いを教えてください。

吉田 5歳の時に兄(良一郎さん)が先に始めているんですけれども、当時家の周りでエレクトーンとかみんな習い事を始める中で、父親に『自分も何か始めたいんだけど』という話を兄がしたらしいんですね。その時に父親から言われたのが、全然他の洋楽器とかではなくて、『三味線どうだ?』という話でした。

―― お父さんから三味線どうだ?という話だったんですね。

吉田 そうなんですよ。じゃないとやっぱり出会わないですよね(笑)そもそも。

―― 三味線というともっと年齢が経たないとできないものなのかなという勝手なイメージでは思うんですけれども、そうじゃないんですね。

吉田  やっぱり全然楽器の方が大きいです。子供用ってないんですよ。バイオリンとかあるじゃないですか。長さは全部一緒なんですよ。短くできないから、結局短くしちゃうと三線(さんしん)になっちゃうので。だから同じ大きさのものを大人も小さい子もみんな同じものを使うんです。小学校5年生ぐらいにならないとそもそも(手が)届かないんですよね。

―― それでもチャレンジは続けたということですね。

吉田 そうですね。チューニングに関しては、上に”ねじめ”というものが付いていて、そこに糸が巻いてあるんですけれども。それをやるところに手が届かないのでチューニングするたびに下ろして、チューニングをして、また持ってというような感じで昔はやっていましたね。

――  継続された理由というのはどういう所だったんですか?

吉田 1番は父親の熱意ですよね。

―― お父さんがすごく熱心だったんですね。

吉田 そうですね。周りにはそういう三味線をやっている人達は全然いなかったですし、稽古場に行った時にジュース飲めたりお菓子を食べれたりそういうような感覚で、子供ながらに週に1回楽しいことがあるよねっていう感じだったんです。 だから習い事という感じではなくて、その当時は自宅から自転車で20分ぐらいのところにある稽古場があって、女性の先生だったんですけれどもおばあちゃんで、 兄弟弟子は全部おじいちゃんおばあちゃんだからかわいがってくれたんですよね、周りが。環境としてはすごく居心地は良かったですよ。

―― 自分が1番年下ですよね、言ってみれば。

吉田 そうですね。兄弟弟子ですけどね(笑)おばあちゃんからするとすごい孫のように可愛がってもらい、ただ幼稚園から始めているのでそれこそ小学校5、6年生になるとやっぱり恥ずかしさも覚えてきて、あとはやっぱり周りにいないということに気づくんですよね。学校のプロフィールとかに趣味特技とか書くところ結構あったじゃないですか。そこに三味線って書けなかったですもんね。書きたくないっていう…

―― じゃあ野球とかサッカーとか?

吉田 そうですよね。やっぱりサッカーとかスポーツとかゲームというような感じで隠そうという感じに段々なっていったんですよ。 やっぱり地元のお祭りとかに演奏で駆り出されるんですよね。

―― やはり教室でやられているから?

吉田 そうなんですよ。そうしたら浴衣で演奏しなきゃいけないんですよ。その時に同学年の友達が目の前で遊んでいるわけですよ。それで見られるわけですよね。そして次の日冷やかされるという。これの繰り返しですね。

―― そういう時代がありましたけれども、吉田兄弟がそこにある意味革命を起こしたんじゃないかなと思うんですね。お2人が出てかっこいい演奏をすることによって、恥ずかしいものではなくてすごいなと思われるようなそこにチェンジできたというのは吉田兄弟のお2人のおかげなんじゃないかなという風に思います。

吉田 当時ちょうど2002年から中学校の選択授業に和楽器が取り入れられた年だったんです。それが決まったのが僕らがデビューする直前だったんですよ。それで学校で演奏する若い奏者が必要だろうということで、当時文科省(文部科学省)と僕の最初のレーベルがビクターだったんですけれども、ビクターに伝統文化振興財団というのが今もあるんですけれども、そこがタッグを組んで、誰か若い子にデビューさせようというので、僕らがデビューしたんです。やっぱりそういう役割はどこかにあるんですよね。

―― 運命的なものをそこは感じますね。

吉田 同じ時期に東儀秀樹さん(雅楽)とか和楽器でそういう方がワーっとデビューした年だったんです。

―― そういう奇跡的なタイミングにも恵まれていますよね。

吉田 そうですね。それは確かにタイミングですよね。

―― 動画を拝見させていただいたら中学生になったら、お兄さんと一緒にやめようみたいな話がありましたね(笑)

吉田 そうですね(笑)小学校4年生と6年生の時に中学校に入ったらやめようと相談してて、母親に話してたんですが、母親から『父親が勧めたものだから私じゃなくてお父さんに話しなさい』と言われてしまい、それを言ったら追い出されるんじゃないかぐらいの感じだったので、ずるずるずるずるやっていたら、父親が津軽って男性っぽい楽器なので地元の先生よりも、男性の師匠に習いに今度は札幌まで行くことになりました。

今は女性もたくさんいますが当時は男性の方が多かったんです。昔、父親が憧れた奏者というか 炭鉱で働いていた時に民謡のツアーが回ってくるんですよね。その時に見た三味線の演奏というのが素晴らしくて父は仕事を辞めて奏者になりたかったんですよ、20代の頃に。 それで一時期習ったんです、って。でも習ったんですけどもその年齢で稽古とか周りから反対を受けて断念するんですけれども、やっぱりその夢を子供達にということだったのでその男性の師匠に今度は登別から札幌まで毎月1回通うようになるんですよ。それが流派の1番トップの家元だったという。

 それまでは近所の先生がその流派の名取さんで、今度は家元のところまで月に1回習うという生活が4年くらい、その日は学校休んで行ってました。

――  その時は苦痛には感じなかったんですか?

吉田 もう流れに任せるしかなくて、父親も何回も断られていたんですよ。名取だけで100人抱えているので子供なんかに教えてる暇がないんですよ。

―― なるほど。お父さんの情熱がめちゃくちゃ強かったんですね。

吉田 しかも1個だけチャンスがあったのが、実は師匠って昔父親が少し習った先生だったんです。

―― そういう繋がりがあったんですね。

吉田 まさかのという。でたまたま全部の会が集まるのが 年に1回あるんですけれども温泉地とかで。その時に家元から僕が目をつけられて、子供ながらに一生懸命弾いているものだから。どこの会の子なんだいって聞かれた時に父親がたまたま横にいて、それで父親が『お久しぶりです』というのがあったんです。父親はチャンスだと思って(笑)やめたい気持ちも全然無視というか、それも知らずに何回も札幌までお願いに上がりに行って、3回目ぐらいでじゃあ1回おいでと言われて。

―― 本当に今となってはお父さんの熱意のおかげで今があるということですね。

吉田 本当にそうなんです。結局その時もまだじょんがら節という有名な曲とかは全然弾けないので結局父親が、座頭市っていう映画があるじゃないですか勝新太郎さんの。あそこに津軽じょんがら節が出てくるんですよ。それを見てそれを覚えて家元の前で弾こうという発想になり、兄貴が当時レンタルショップまで行って座頭市を借りてきて、小学校5年生ぐらいの時に。

―― 渋いですね(笑)

吉田 渋いですよね(笑)でも座頭市ってめちゃくちゃシリーズいっぱいあるじゃないですか。どこにじょんがら節が入っているか分からないんですよ(笑)

―― 全部見ていかないといけない。

吉田 たまたま金曜ロードショー的な感じで再放送になっていたんですね、何日か前に。それを店員さんに話したら探してくれたらしくて。それを今度ビデオテープから僕が全部音を録って、覚えて楽譜に書いて、それを持って行ってやっと OK もらったという感じでした。

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