【吉田兄弟】<吉田健一さんインタビュー第1弾>津軽三味線との出会い、兄とのユニット結成秘話、注目を浴びたキッカケや活躍する為の努力

―― お父さんの熱意とお2人がそれを受け入れて頑張ってきたというところがすごいですね。その後、大人になったお二人はお父さんに御礼をされたんですか?

吉田 御礼というか返せるものがないかなといった時に、言葉では当然あるんですけれどもすごく楽器ってお金がかかるんですよね。しかも2人分じゃないですか。三味線って1番安いのでも20万円クラスなので、 1番良いとされるものでやっぱり200万円前後するんですね。家の状態とかもあまり良くなくて、建物自体が。それで兄貴と話をして建て直したという。

―― 素晴らしい!これはいい話ですね、親にとって1番嬉しいのはそれだと。 でもよくお父さんの熱意に応えて頑張りましたね。

吉田 そうですね。でも本当に師匠との出会いが1番大きくて、初めてかっこいいと思える奏者に出会えた。あと奏法が素晴らしかったですね。音色がすごくて。

―― 小さいながらに違いが分かるんですね。

吉田 それは分かったんですよね。分かったので、『この人について行こう』と感じたのと、あとはやっぱり今まで普通にやっていた民謡とかとの大きな違いは、民謡は楽譜がある程度書かれていて、 洋楽器の楽譜をちょっと真似た3線譜というのがあって3本線の上に数字が羅列してあるんですね。なんですけれども津軽民謡というのはそもそもアドリブで弾いているのでないんですよ、楽譜が。存在しないんです。

――  初めて知りました。

吉田 なので流派によって内容が全然違うんですよね。それを僕らは知らずに師匠のとこに行って教えられるんですけれども、津軽なんとか節というのを教えられるじゃないですか。それで次の月に全く同じものを僕たちは完璧に暗記して行くんですよ。なんですけれども師匠はアドリブで弾いているから次の月に行っても同じタイトルなのに全然違うんですよ。

―― そういうこともあるんですね(笑)

吉田 (笑)曲が違うなって。タイトル同じなんだけれども。そういう感じで体験をさせられて覚えさせられる。

―― 耳でってことですか?

吉田 耳です。 師匠を目の前にして、『先月と違います』って言えないじゃないですか。

―― 言えないですよね。でもアドリブですよねとは言えますか?

吉田 言えるわけないじゃないですか(笑)基本的に、師匠に足を向けるような行為は名取さんも許されませんし、すごい厳しいので。

―― 絶対的なピラミッドがあるんですね。

吉田 あるんですよ。どっちかと言うと先生よりも名取さんが厳しいんですよ。僕らみたいなのが来ると『なんで子供がここにいるんだ?』と思っているんです。そもそも嫉妬があるんです。1人子供 OK にしてしまうと名取さんのお子さんっていっぱいいるじゃないですか。じゃあうちも、うちもとなるから、だからそれもあって取りたくないという気持ちもあったみたいですね、家元は。ただやっぱりそこに対する僕らの父親も含めて熱意というか、ついていくスピードが名取さんよりも全然早いんですよ。子供だから吸収力があるんで、めちゃくちゃ耳がいいからスポンジのように吸っていくわけです。だから、いつもは稽古って本当は1時間ぐらい終わりで、しかも名取さんの稽古って団体で3、4人でやるんですけれども、僕らは2人だけの稽古で、それも2時間とか3時間近くになるんですよ。家元が乗ってくるんです。

―― 気持ちよくなっていくんですね。
 
吉田 教えたらどこまでも覚えていくんで(笑)ついにご飯まで食べさせて頂いたり。そういう稽古が4年ちょっとぐらい。その間に全国大会に出場する機会があって、全国大会は青森県であるんですけれども、そこで初めて同年代がいるということに気づいて、ライバルができ始めるっていう感じです。

―― その時のライバルの人というのは技量的には同年代でどうだったんですか?

吉田 自分達は初め分からないじゃないですか。そもそも競い合うのが僕と兄貴しかいないから。今までなんとなく仲良しこよしでやってきたんですけれども、やっぱり初めて点数が付くというか、順位が分かるというふうになるので。でもほとんど僕らよりも上の人達なんですよ。

―― 年長者の方ばかり?

吉田 そうなんです。小学校5年生ぐらいで出ている人はほとんどいないんです。 A 級、B 級、 C 級があって、 A 級が1番うまい、経験年数で分かれているんですけれども。1番下の級に僕が初めて5年生で出た時に特別賞に入ったんですね。そこからは兄との関係が一気に変わりまして、お互いライバルとして1年に1回の大会のために、しかも曲を作らなければいけないんですよ。

―― オリジナルですか?

吉田 そうです。津軽じょんがら節を大体みんな弾くんですけれども、さっきも言ったようにタイトルだけあって内容が決まっていないので。やっぱり上手い人達の演奏をテープに録音して、そのテクニックをまず盗むんですよ。座頭市と一緒で聞いたものをこの人の分はここ、この人の分はここって感じで組み合わせていくんですよ。 そこから手を盗むことが始まるんですよ。あと兄貴が真似したフレーズは僕が真似できないですし、違うものにしなければいけないので、フレーズの取り合いですよね。

―― そうなんですね。では一緒にこれを聞いて一緒にやるというのは無くなっていったのですか。

吉田 それからはなくなりましたね。壁1枚挟んでお互い曲を作るから。でも丸聞こえじゃないですか。

 ―― あっちあんなのやっているなみたいな。

吉田 これは真似できないな、違うの考えるみたいなのがそこから10年間。デビューの直前まで大会に出てましたから。

―― 例えばもう辞めてしまってバイク乗ろうとか、違う楽しみに切り替えようとかもなかったのですか?

吉田 学校に行く、部活をやるというのは普通にやっていたんですね。遊びも普通にやっていたので家に帰ってからの生活が”ご飯を食べる前に弾く、食べたらまた弾く”なんですよね。

―― そういうのが当たり前になってたのですね。

吉田 毎日でした。父親は『稽古をしなくてもいいけれども、まず触るのだけは毎日やれと、10分でも。』と言われていたんですけど、本当にその通りで、3日弾かないと手元がかなり狂ってくるんです。 

―― 3日ですか?!

吉田 3日弾かないと戻すのにかなり時間がかかります。あとは叩く力が強いので手首へのショックの感じ方が抜けていくんですよね。体が忘れていくというか。なのでそれをやらなければいけないので、父親は全然残業とかをする人ではなかったので定時に帰ってくるんですよ5時から6時に。楽器を練習していないとうるさいから、家の前が畑だったので二階から双眼鏡で調べて帰ってきたら三味線を出してやってるふりというのは母親と結託してやってましたね(笑)

―― (笑)そういうところを頑張ってきたからこそ今があると思うので、ご自身の中では当たり前だったかも分からないですけれども、 それはすごい努力の結晶でなられたんだなというのが分かりました。
 
吉田 その与えられたタイミングというのが本当によかったなというか、今考えればさっきおっしゃったように奇跡的なもので、辞めようと思ったら師匠が変わるとか、全国大会に出会ってみたいなのが、本当にそれがなかったら絶対に辞めていますし、やっぱり全国大会で優勝するという1個目標がそこでできたという。 優勝しているのがじいちゃんばあちゃんじゃなかったんですよ。相手も20代だったんです。 すごい上手い先生方は出ないんですよ、大会には。若いお弟子さん達が出るんですけれども、そういう姿を見て、あんな風になりたいというのがひとつ近い目標というか。師匠はものすごく遠い天の上の人なのでそこにはなれないけれども、ここだったらたどり着けるかもしれないなって思えた瞬間だったんですね。

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