【吉田兄弟】<吉田健一さんインタビュー第1弾>津軽三味線との出会い、兄とのユニット結成秘話、注目を浴びたキッカケや活躍する為の努力

【注目を浴びたキッカケ】

―― そして吉田兄弟として世の中に出てきた時に起点となったタイミングって何かあったんじゃないかなと思うんですよね。

吉田 まず兄弟でやってたというのがひとつあって、あまりそれほど多くはなかったんですよね。あと賞にお互いが入り始めるようになって地元紙とかメディアに結構取り上げられるようになって、そこで初めて吉田兄弟と呼ばれるようになるんですよ。

―― 小さい時から地元の人からは注目されたのではないですか?

吉田 小さい子で三味線をやってる子がまずいないですし、しかも兄弟でやっているから、吉田兄弟と言うと周りもあそこの兄弟ねみたいな感じにはなっているような状況ですね。

――  そうなりますよね。

吉田 イベントとかに呼ばれてよく演奏していたんですけれども、大体呼ばれるのは吉田兄弟。コンサートをやるときでも横断幕とかは吉田兄弟って書いてあるし周りがそうやって呼んだだけでデビューする時もそうでしたね。この名前で行くんだなと後から見て分かって。

―― そうなんですか?

吉田 間違ってはいないんですけれども(笑)誰も疑わないんですよ。違う名前を付けようとかならないんですよ。

―― 確かに幼い子が頑張っているだけでも注目されるのに、それが兄弟となったら余計に注目度が高くなりますよね。

吉田 やっぱり全国大会に行くとすごく兄貴は嫌だったみたいなんですけれども、周りは僕と兄貴をすごく比べるんですよ。 今年はお兄ちゃん頑張れよとか、今年は弟頑張れよみたいな。余計なお世話なんですけれども、結構一般の人は注目して見てくるから。

―― それは当人同士はすごい嫌ですね。

吉田 嫌でしたね。それを10年間ずっとやらなきゃいけないので自分たちが思っている以上に周りの注目度というのはありましたね。あとは優勝した時にメディアに出た時の反応とか、そういうので自分が中学生ぐらいの時には三味線でやっていこうと決めていたので。

―― そこで人生の道を決めたわけですね?

吉田 まさに師匠に出会って4年経って辞めたぐらいの時にある程度演奏活動があって、毎週それこそ札幌に行くだったりとか全道ですよね、北海道の中を走り回っていた中でこれを職業にしたいなという気持ちはもうあって、だから進学は大学に行くとかではなくて、友達を作りに行こうと思って適当な高校に(笑)一気に学力が下がっていきましたね、勉強しなくなったので(笑)

―― (笑)でも一つ道が決まればもう進むだけですね。

吉田 兄貴は高校生になって決めたみたいです。高校の時も普通に部活動ガンガンやっていた人だったのでそういう感じでやっていました。

―― お兄さんと仲が悪くなった時期はなかったのですか?

吉田 あんまり変わらなかったですね。普通に兄弟喧嘩とかもありましたけれども、三味線をやっていたからそれが理由で何かあったとか、そういう三味線をやっていたから特別なものは一切なく。分けていましたね、三味線をやっている時の2人とそうじゃない時を。僕はもう兄貴にくっついて遊んでもらっていましたから、兄の友達とかに。年上の友達ばっかりだったので。

―― そういう時はお兄さんをリスペクトで、弾く時はライバルみたいな感じですか。

吉田 そこはもう関係ないので容赦なしに(笑)。でも僕は気が楽ですよね。弟だから負けても理由があるんですよ。

―― お兄さんが確か言っていたのが弟さんはリズムでお兄さんはメロディーをやっているというお話をされていましたよね。

吉田 兄の方が民謡的なそういうメロディーは強いですよね。でも全国大会に出ている頃はそれほどそういった個性はまだなくて、 どっちかというと技術。とにかく技術で攻めるという大会なのでさっきもお話しした通りマックスのスピードで弾ける、今聞いてもその当時の演奏残っているんですけれども、めちゃくちゃ速いです。今はもう弾けない。ちょっと無理です(笑)

―― 今は弾けないくらいなんですか?

吉田 大会の演奏は分数が決まっているんですよ。3分とかなんですけれども、オーバーすると太鼓がポンポンと鳴るんですよ。これは減点なんです、この時点で。収めなきゃいけないというのがあるんですけど、どこにもタイマーはとかもないんですよ見えるところに。

―― じゃあもう脳内タイマーで?

吉田 そうです、体の中で時間を測ってやっているから、やっぱり本番になるとより速くなりますよね。

―― 緊張しますもんね。

吉田 巻いてやろうという気持ちになるから。

―― 手もその分速く動いている。

吉田 そうなんですよ。それでも弾けていたんですよ。

―― すごいですね。

吉田 あとは目標として大きかったのは全国大会でA級という1番トップで入賞すると当時コロンビア(日本コロムビア)から CD を出せたんですよ。

―― A級で賞を取ると?

吉田 A級でトップ6に入ると個人の名前で収録されて、スタジオ録音でしかも全国発売されるという。その年代で全国発売される三味線奏者なんていないから、やっぱり登竜門なんです。ここでとらないと名前が出せないので自分達が。だからどうしても優勝したいというのがすごい気持ちとして強かったですね。 

―― よく若い時に変に寄り道せずにこれで食っていこうと思えたのはすごいなと思いました。

吉田 もちろん他のギターをやったりも色々としていましたよ。

―― ギターもやられていたんですか?

吉田 やっていましたね。だから当時は高校生ぐらいの時にちょうど奥田民生さんがソロでやり始めてコピーしてましたよ。なんですけれども結局、三味線ってコードがないんですよ。ギターってコードがあるじゃないですか。それを弾いている時はいいんですけれどもソロパートで自由に弾こうと思った時にギターは6弦なのに僕は3弦しか使っていなくて。三味線を弾いているかな6本使うという感覚が僕にはないんですよ。だから結局これだったら三味線でいいじゃんという発想になって(笑)。コードが弾けないけど三味線、でもソロになった時に結局半分しか使っていないってなったら意味がないですよね。ギターのいい音を出せていないから、それで辞めようと思いましてそこから触っていないです。

―― ありがとうございます。すごい色々と経験されていらっしゃるなと思います。

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